スーパームーンとおでんの匂い
飲み会が苦手だ。うるさくて落ち着かなくて、会話のためにいちいち大声をあげなければならない。とても疲れる。
それでも参加するのは一緒に居て楽しいと思える人がそこにいるから、又はタダメシにありつけるからで、今日の場合は後者だった。
飲み会が苦手でも、にぎやかな場から急に一人になるのは寂しくて、私は地下鉄の入り口で携帯をつるりと取り出し恋人に電話する。味付けの濃いビュッフェが微妙な満足感でお腹に収まっていて、このまま帰ればすぐにお腹が空きそうだけど、何か食べるほど空腹でもないのだと相談すると、彼は「〆のラーメンってとこだな」と笑った。
「うどん屋さんがあるけど」(胃が弱いのでラーメンは胸焼けしてしまう)
で、ふと思いついたのがおでんだった。うどん屋さんにおでんがある。
「うどんのウエストでおでんだけ食べるって、ありなのかな」
知らない、と恋人は言う。でもおでんはいいな。今日はスーパームーンだから。前のスーパームーンの時は一緒におでんを食べたよ、金沢駅で。
「え、あれもう1年前? あ、ちがう。もしかして2年前?」
2年だな。
「もうそんな経つの」、半年前くらいの新鮮さで記憶に残っているのに。「それならおでんにする。食べて帰る。」
俺も40分くらいしたら帰り着くよ、と、まるで同じ家に住んでいるかのように言い合って、そこで電話は切れた。
スーパームーン。次にこの大きさになるのは六十数年後だと恋人が言っていた。さすがに次は見れないねえ、と私は空を見上げたけれど、月は見つからない。
今夜ほどの規模ではなかった?らしいが、2年前のスーパームーンの日に私たちは金沢駅でおでんを食べた。秋のはじまりを告げるようにローソンがおでん70円セールを始めていた。その秋の一番最初の70円セールだったのを憶えている。駅を通り抜けて仕事終わりの恋人を迎えに行き、それぞれ好きなおでんを好きなだけ買った。晩ご飯を作るのが面倒だったから。駅の、観光名所みたいな大きな門の周辺には座れる場所があって、石の腰掛けから月を見上げながらおでんを食べた。お腹がすいていたし、気候がよかった。
あの時のことは幸せの象徴のように私たちの記憶に残り、時々思い返しては「あれは楽しかったねえ」と言い合うことがある。私たちは身軽だった。何にも縛られず身軽だった。私は、家庭で刷り込まれた「きちんとしなければならない」という観念(それはギフトでもあるのだが)から遠く離れ、ご飯はテーブルで食べなくてもいいし、夜に家にいなくてもいいし、好きな男と好きなように暮らしていいし、お金と時間さえあればどこに行ったっていいのだと、その自由をその解放を隅々まで楽しんでいた。青春とは家庭において刷り込まれた色々なものを、良いものも悪いものも全部捨て去って、捨て去ることができる自分を楽しんで、そしてそこから何を取り戻すか、何が残るか、試してみることなのだろうと思う。一旦全部壊してみてから、何が良いもので何が悪いものなのか、自分で決める時間がその後についてくる。
あれから2年経ったのだ。
あの時はおでんに柚子胡椒をつけた。今日のうどん屋のおでんコーナーの辛子チューブはあまり魅力的に見えなかったのでパス。
スーパームーンを楽しむ勝手な暗号として、おでん、というのは悪くないキーワードだと思った。
私はひとり、うどん屋でおでんを食べて、よく行く喫茶店でジャムとクリームと紅茶を吸い込み、帰路についた。
「日本の就活キモい」と思っていた、あの頃のわたしへ
みなさま「就活狂想曲」憶えてますか。2013年頃バズってたやつです。
2013年にピチピチの大学1年生だった私はこれを見て、うわあ、って思いました。
社会の歯車になんてなりたくないとか言ってました。笑
日本社会は不健全だ〜とか言ってました。
日本の就活はキモいのか
結論から言うとそこそこキモいです。それは事実です。
わたしも合同説明会に行って、真っ黒い髪の毛と真っ黒いスーツの大群にうへえと思いました(自分もその一人でありながら)。
でも就活狂想曲ほどひどくもなかったな、というのが私の率直な感想です。
就活狂想曲はキモい部分ばっかりあえて誇張してる作品なので、これだけを見て「就活キモい」というのはあまりに短絡的です。
日本の就活の問題点とは
日本の就活は異常だって言う人(ネットには)多いですけど、
就活を語るときの論点って難しいですよね。
1. みんなが同じ見た目でキモい(リクルートスーツ)
2. みんな似たようなこと言っててキモい(御社!わたくし!リーダーシップ!)
3. 新卒一括採用というシステムが変
…というのはそれぞれ別の話で、ごちゃ混ぜにするべきじゃないと思います。
この記事では上記の3点について、今のわたし(就活後)から、あの頃のわたし(就活前)へ伝えたいことを羅列してみます。
1. 就活生がみんな同じ見た目でキモい点
リクルートスーツってのは!!!便利なんです!!!!!!!!!
この一言に限る。
リクスーは便利なんですよ。シワとホコリ取るの忘れずに定期的にクリーニングに出しとけばおっけー
みんな同じようなリクスーでキモいって言うけど、
じゃあ何を着ろというのか
企業でスーツ着てる大人たちに会いに行くのに適した服なんてそんなに持ってないです
それぞれの企業の志望動機考えるだけで手一杯なのに、そのうえ面接のたびコーデ考えるのなんて無理です!!
没個性?
確かにリクルートスーツは没個性ですが、それがイヤだと言う人は中学高校で制服を着なかったのだろうか?(むしろ着てた反動でリクスーに反対するのか?ありうる)
みんなと同じ制服を着て、その窮屈さに守られてきた延長にリクルートスーツがあるのだと私は思う。
そしてバレンタインデーにチョコレートを買いまくる日本人が、スーツ屋のリクルートスーツビジネスにのせられないわけがない。
リクルートスーツが没個性だと言う人は、中学高校の制服廃止も訴えてほしい。校則というルールが強制する制服と、同調圧力で見に纏うリクルートスーツは違うと言う人もいそうですが、大切な大切な世界で一つだけの花の個性を潰すという点では全く同じではありませんか。
まあ、でも、ちょっとぐらい違くても誰も気にしてないし、同じであっても誰も気にしてない。そんな透明な鎧がリクルートスーツ。女子がスキッパーシャツの襟をぴょいと出してるのキモいよねちなみに私は髪の毛先をピンクにしてた名残でいまだに髪の毛先の一部が金髪なんですがそのままふつーに面接受けてました。そんな目立たないし。あと6月面接解禁とはいえ暑かったので途中で長袖Yシャツ着るのやめて、ユニクロで買った白い半袖カットソー着てた。最終面接もそれで行った(もちろんジャケットは着用)。内定者懇親会でそれCA用のシャツ?って聞かれて「いやユニクロ」。
2. 御社、わたくし、リーダーシップ(就活生はみんな同じことを言う)?
就活生はみんな似たようなことばっかり喋ると言いますが
それ、なにも就活生に限った話ではありませんよね
この国はほとんどの学校で当たり障りない模範解答ダイスキーな教育をしているではありませんか。
プリントに感想を書けと言われたら当たり障り無く感動した勉強になったと書く、むしろそこで視野の広さから生まれた疑問を書いちゃったりしたら下手したら教師に吊るし上げられる国ニッポン。
そりゃ、当たり障りないことしか言わない就活生が出来上がるでしょう。
就活のせいにするな。就活で顕著になるだけで、元からそういう国です。
就活生はみんな似たようなことばっかり喋ると言いますが
だからといってあなたが、同じことを喋る必要は全くない
テンプレに個性をのせるやり方を教えてくれる本だって出てるし
たいていの就活生はテンプレにちょっとでも自分の個性をのせていこうと必死。
それでもなお、言うことが似るのは、学生だからでは?
20数年しか生きてない、ある程度条件の似た環境で育ってきた人達が
似たことを喋るのはしょうがないじゃないか。。
あと、企業の人そんなに話の中身まできいてない。
喋り方、言葉の選び方、身振り手振り表情、そういうのに人生観は如実に出るし、その雰囲気が「今年採りたい学生像」にマッチすれば1次2次面接通る(たぶん)
その上で最終面接ではたいていの面接官が頭の中を見たがるのでここまでくるとあたってさわる人の方が通りやすいのではないだろうか、最終でばっかり落とされるのはガチであたりさわりない人
そしてこの「今年採りたい学生像」はかなり具体的に絞ってあるけど、学生には絶対教えてくれない。運良くマッチしたら内定。内定者懇親会に出てみてようやくわかる「ああこういうタイプを求めてたのか」
3. 新卒一括採用は変なのか
新卒一括採用、こんなありがたいシステムはない
毎年毎年一定の時期になったら企業が数十〜数百を雇用してくれるんですよ!?
「のびしろ」「これから会社のカラーに染めれる」以外に何の価値もない20そこらのぺーぺーを!!
専門性もなにもないのに!
海外じゃインターンして大学でもガリガリ勉強して専門性積んで、それでもポストに空きがないと採ってもらえない。
日本の新卒一括採用は波に乗ってしまえばどこかには辿り着く。あくまで「就活は」なので入社してからのことはわからないですが。
大学で遊んでても、専門性なくても、インターン経験なしでも、面接さえ良ければ通る。一発勝負が得意な人にはこれほどありがたいシステムないと思う。
そして一発勝負が下手な人にはこれほど辛いものはないだろう…
しかし、そもそも大学までで一発勝負が下手な人はだいぶふるい落とされるのがこの国である。年に一度のセンター試験や入試。一発勝負がそれなりにできる人じゃなきゃ登って行けない。
口を酸っぱくして言いたい。就活に始まった話じゃないんだ。
日本の場合、一括採用じゃなくなったらそれこそ年中就活しないといけない感じになりそう。やめてくれ。
日本の就活の問題点?
みんな同じ。当たり障りない。没個性。一発勝負。
それらは、就活で表に出てくるだけで、就活そのものの問題点ではない気がする。
就活が病んでいるとすれば、日本社会そのものが病んでいる。
だから海外最高とか言いたいわけじゃない。現代社会はどの国もそれなりに病んでる部分を抱えてる。
でもその病んだ部分を抱えた社会でこの先数十年生きていくのが私たちなので。
よりよく生きたかったら波に乗るしかないのが現実。でもどういう波にどんなふうに乗るかはけっこう選べるから、そこは諦めず妥協せず選ぼう。あとは楽しむしかない。両親が高いお金で買ってくれた学歴は幸い役に立つ。お父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃんありがとう。
就活、そんなに悪いものじゃない。苦しいしわけわかんないし焦るけど、人事も人間だし、面接官も人間だし、同じ格好してても同じ人間なんていないのはむこうがよくわかってる。
就活は祭りでした。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損。
就活は、暗くて深い穴でした
就活がやたらと苦しかったので、苦しかった理由を書きます。
「私が就活に苦戦した理由」ではなく、今までずっと学校という守られた環境で学力というわかりやすい手段でそこそこに勝ってきた人間が「就職活動」に対して感じた強いとまどいの原因をさぐる話です。
正解がないということ
一言でまとめると
正解がない ➡ 「これでいいのか」と悩む
しかも新卒カードの重さ半端ない、人生かかってる(気がしちゃう)
勉強してればよかった今までとは違う
のが辛かった。
11月くらいに行ったセミナーで聞いてめっちゃ記憶に残ったのがこの一言
「就活に絶対的な正解なんてありません。だから、情報の取捨選択が大切です。」
誰かにとっての正解が、あなたにとっての正解とは限らない、ってことですね
正解とは何か? 模範解答とは何か?
ものさしがあれば、測ることができます
テストであれば、回答が用意されています
でも、人生はそうじゃないし就活もそうじゃない
同じ大企業に入っても、お金ばりばり稼げるのが嬉しい人もいれば、睡眠時間がないことで鬱になる人もいるわけですよね
人生における最大の問題は、
「幸せに生きていけるか」だと思うんですが
そこから派生する、就活での問題は、
「今なにを選べば、どんな道を歩んで、幸せになれるのか」であり、「そのために何を優先し、何を犠牲にするのか」であり、さらに
それを考えるためにいろんな会社を調べても結局入ってみなきゃわからない部分もたくさんあるしそもそもそんなしらみつぶしに探せるかよって話だしぶっちゃけ最初に配属されたところの上司との相性でその先数年が決まるとも言われているがそれはもはや運ゲーだし、そして就活は情報戦 であるにも関わらず 情報は平等に配信されるわけではない し 情報は正しいとも限らない という特徴が顕著です。
つまり
苦しさ① 優先順位をつけるのは難しい。働く時になにを優先しなにを犠牲にできるのか、なんて働いたことないのにそんなリアルに考えられない。なけなしのバイト経験を元に判断するのは困難。➡だから就活中は常に、「これでいいのか」と悩む
苦しさ② 自分に合いそうな企業を探したところで、情報は玉石混合 ➡大学受験までとは違って情報の取捨選択が難しい ➡常に「これでいいのか」と悩む
本当は大学受験までも情報戦だったのかもしれないけど、それを意識する人は少ないし、新卒就活の〈ここでしくじったらヤバイ〉感は格別。
(本当は新卒就職しくじったところで幸せに生きていくための機会なんてまだまだたくさんあるわけですが)
で、「これでいいのか」と悩み続けるのはしんどいです。そこに答えが与えられないのもしんどいです。エントリーシートやウェブテストが通るか通らないか、はまだ気合いと学力の話なのである程度自分の中でも落ちる落ちないの基準がわかるからまだいい。
面接は答えがない。同じ自分が毎回同じように化粧して、挨拶して、ニコニコして、受け答えしてるのに、落ちる時と通る時があって、落ちても通っても理由は教えてもらえない。良かった理由も悪かった理由もわからないまま、また別の会社に行って同じようにニコニコするわけです。オフィスビルのトイレや鏡を我が物顔で使うことぐらいしか上達しない。答えがないっておそろしい。
誰も自分の人生に責任を持ってはくれないという現実
答えがないことに加え、しんどかったのはこれ↑です。
いよいよ、人のせいにできないぞ、ってこと。
あなたが就活失敗して不幸になろうが、ニートになろうが、鬱になろうが、誰も責任取らないし、それでも社会は他の人の手によってきちんと回って行くんですよ、っていう現実。
うわーーー自分はなんてちっぽけな存在なんだ。
ちっぽけだから、こっそり紛れ込んでどっかの会社に入り込みたいのに、それはさせてもらえないんだ。
お祈りメールで今後の活躍を祈られるたびに「私の人生に責任とってくれないくせに」って思っちゃうぜ。
おまけ
苦しくて何度も何度も泣きました
結果が気になってご飯が喉を通らなくなったこともありました
もはや声すら出ず、無言のうちにぼろぼろ涙だけこぼしながら、町を歩いたこともありました
でもそうやってもがいているうちに
だんだんと、私は泣かなくなっていきました
心がすり切れてしまったから?
いいえ、違います
宝塚に
はまったからです
ア、アウト〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
おかげさまで、面接がおわって帰宅したら即動画をあさり、面接結果が来るまで就活のことなんて忘れて宝塚に没頭し、メールが来てやったー面接通ったぞーって次の面接に行き、を繰り返して気付いたら内定してましたし、気付いたら公演DVDを買い宝塚友の会に入りお高いチケットを買うようになっていた。
トンネルを抜けると白かった。
これから就活する皆様に私は宝塚をすすめたい。〈完〉
シンゴジラはとっても庵野作品だと思った
シンゴジラみてきました。以下感想3つ。ネタバレばっかりです。
①庵野作品に信頼できる女性が出てきたのが嬉しかった
③最後のゴジラのしっぽは何なんだ
ちなみに私は特撮に関する経験ゼロ、当然ゴジラもよく知らない、エヴァはTV版から新劇場版Qまで全部見た、安野モヨコファン(監督不行届も既読)、です。エヴァはかなり好きです。新劇でエヴァが覚醒するとこで泣きました。じゃ感想いきます
エヴァの細かい話は知らん、って方は青字をスキップ!
感想1:庵野作品に信頼できる女性が出てきたのが嬉しかった
庵野作品とか言いながら私エヴァしか見てない大口叩いてすみません。あ、やっぱり「トップをねらえ!」もちょっと見たことあったです。
までも庵野氏の世界観ばりばりなのがエヴァですよね。そしてエヴァって、(新劇場版ではみんなちょっとずつ責任感とか人を思う気持ちみたいなのが出てきてるけど、元々のテレビ版や旧劇場版だと)まともな女いないんですよね。
しかし!!
シンゴジラは良かった。石原さとみも市川実日子も最後まですごい骨太ないい女だった。「女である」ことはあくまでオプションとして付随してて、中心に人間として、あるいは仕事人としての意思や信念ががっつりある素敵な人達だった。
古いエヴァ(ここではTV版から旧劇場版までをこう呼ぶことにする)の女たちは仕事という殻をまとった中身のぐにゃっとした生き物で、仕事の殻を一度はがしちゃうとその下で弱さや欲望や男嫌いや精神異常が渦巻いてた。ミサトさんは結局のところ孤独に耐えきれない弱い女だったし、リツコさんは過去に縛られ男を憎んで男を愛する獣だった。レイはお人形でしかなく、お人形から人間になろうともがいたが、だからこそ死んでしまってやっぱりただのお人形になってしまった。アスカは最初こそ理想のツンデレだったのに精神崩壊して、最後はシンジ君という〈僕〉を「きもちわるい…」と蔑む存在になってしまった。まともなやつが、いない!!
庵野秀明、女嫌いなんだな…そしてその嫌いには崇拝と畏怖と見下しが混じってるんだな…愛憎が渦巻いてる…
って感じが古いエヴァからはぷんぷん漂ってくるわけですが、
それに比べてシンゴジラ!!!!
最初から最後までいい女、カヨコ・アン・パターソン!!!
色恋には持ち込まないぜ!!!
私が好きな台詞は、「ZARAはどこ?」と、Good luckと言われてthanksとか返さずにため息まじりに"yeah.."と言うところです。石原さとみのyeah...
あと、初登場のシーンでつけてたピアス(ちょっと高そう)は途中ぜんぜんしてないのに最後のシーンでもう一度してるのがなんかいいですね。旅行中っぽさ。着飾ったまま急遽来た国でゴタゴタしながら過ごした後、一件落着してさあ本国帰るかってなったら来た時のピアスつけるよね。うんうん。
庵野監督の世界が古いエヴァの頃とは変わってきていること、新劇場版にはもちろん現れているけど、シンゴジラですごくわかりやすく伝わってきた。「女という生き物」は怖いものでも狂ってしまうものでもなく、「女」より「人間」がちゃんと先行する、意思のあるいい女がいまの監督の世界にはいるんだなあと思った。よかったよかった。(私は一体誰目線なのかというのはここでは一旦置いておく)
感想2:シンゴジラとエヴァの視覚的な共通点 とか
シンゴジラにはいろんなところに様々な作品に対するオマージュが仕込まれているという。しかし私は無知なのでそんなことはさっぱりわかりません!エヴァっぽいと思ったところも元を辿ればそもそも他作品へのオマージュなのかも!(1つだけわかったのは、カヨコが飛行場に佇む後ろ姿をうつしたシーンにすごくスカイ・クロラっぽい空気が流れていたことくらいか。)わからぬ!だが私は語る!
エヴァとだぶった景色を挙げればきりがない。
覚醒シーン。血の海からの誕生。地下鉄の階段に矢口たちが逃げるところは、シンジ君がエヴァに乗ることを拒否して一般人に紛れてジオフロントの中に非難する時に地下に入って行く斜めの光景を彷彿とさせた。遠くから眺めるゴジラ。停電。1度目の襲撃のあとの、様々な報道アナウンス、日常を取り戻す朝の高校生、線路。新橋が焼けるところ。自衛隊の砲火でおきる衝撃波が市街地を抜けて行く様子。
ていうか、シンゴジラはエヴァの出て来ないエヴァだっていう感想も聞くくらいだ。
見た目も、BGMも笑、世界観も、エヴァと共通するものがたくさんある。
てかこれ「エヴァ要素」っていうより、「庵野秀明要素」なんだろうなと思った。
何よりエヴァを感じたポイントは、
ゴジラの装甲の厚さと、進化。
そこに横たわるコンセプトは、エヴァ…じゃなく、神なんだと思う。
神、と言っていいのかもわからない、正確な言葉を選ぶなら「人を超える存在」か。
人が、「人を超える存在」を、何らかのかたちで創り出してしまった時、
人はそれをどうするのか、
制御できるのか、
立ち向かえるのか、
言って見れば庵野秀明というクリエイターが追い求める問いなのではないか。
(そこにミリオタとか電車オタとか特撮オタとかいろんな要素が付随して出来上がる)
とまで考えてふと「神の存在証明」を思い出した(映画を見ながら)。
③ デカルトの仮言三段論法肯定式(モダス・ポンネス):
仮定1: 神は完全である。
仮定2: もし神が完全であれば、神は存在する。
結論: ゆえに、神は存在する。
引用元:http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/0000ginotaiyou3.htm
この存在証明を論理で倒せるか、というのと、ゴジラを物理で倒せるか、というの、似たような話かな、と思ったりした。
感想3:最後のゴジラのしっぽは何なんだ
最後のシーン、1回目に見た時は「手」にしか目がいかなくて、
手がいっぱいだ〜 と思ったんですけど、一緒に見た人に「最後のシーン、人がいっぱいいたね」って言われたので、2回目ちゃんと見てみたら、めっちゃ人のシルエットでした。
1回目に見た時、「最後にのこったエネルギーでなんとか生き延びる最適解の進化を遂げようともがいたのかな」と思ったので
そのイメージが強いのですが
このしっぽはいろんな説があるようですね、もちろん正解なんて私たちにはわからなくて、いろんなふうに解釈できる、そういう余地なんだなと思うので以下完全に想像
ゴジラが「進化」するのは細胞レベルでの本能なのかな、と思うので、
末端で生き残っていたわずかな細胞が、周囲の細胞が死んで行くのに危機を感じ、
なんとかその環境でも生きて行ける最適解を追い求めて「人」に近い形を取ろうとした、
しかし形成が成功するよりも細胞が死んで行くスピードが早く、残った細胞が必死にまた人の形成を試みる➡死んで行くの連鎖でああいう形に?みたいな…
なぜ人の形を取ろうとしたのか?については
ネットで読んだ説 ①旧日本軍の亡霊がゴジラだから
考えた可能性 ②元教授の「私は好きにした」は、実は教授自身がゴジラの中にいるとか…
考えた ③遺伝子から割り出された、あの状況における生存のための最適解が「人のかたち」だった➡「ゴジラより人の方がおそろしい」に繋がる
らへんを想像しました。
何にせよ、想像を掻き立てるすごい造形だった。
そして特に結論がないまま失速するこのブログ記事である
最後に一言いわせてください
すこし頭冷やしてからまた見に行きます!!!
拳を捨てよ、町へ出よう
女の生き様はいろいろだ。
男に頼るものもいる。頼りたくない者もいる。私たちの存在意義はいろんなところに分散していて、その配分もあまりに人それぞれなので、ひとえに女と言ってもいろんな生きものがいる。
それで、たとえば自分にとって何が大事なのか、わかっていても、迷いは無くても、自分と違うものを大切にする女のことを羨ましく思ってしまうこともある。
羨ましさは、妬みとなって、時には恐怖にかたちを変えて、私たちを、リングに立たせる。
あの子がきらい
気にくわない
むかつく、くやしい、わからない。
わかりたくない。
どうして彼女はあんな生き方を選ぶのだろう、
こうしたらもっと、楽なのに。
そう思わずにはいられない私の心も、結局、自分が正しいと思いたいだけだ。
ひとは気にしているものに関してよく喋る。
私の方が、いい、正しい、って 考えているうちは
結局、気になってしょうがないのだ。正当化してないと気が済まないのだ。自信がないのだ。
でも、ねえ、それは所詮、シャドーボクシングでしかない。
敵がさもそこにいるかのような顔で言葉のパンチを繰り出し、嫌みをインターネットに書き込んでみても、それはただのからぶりの悪意だ。
私は以前、女の武器は使いたくないと書いたことがある。
それは女同士の戦いのステージから降りたいからだった。より美しいもの、媚態の上手い者、要領がいい者、立ち回りの上手い者。女だから使える涙、スカート、化粧、そういうものを仕事の責任の場に持ち込む小保方晴子はきらいだった。
私はそういうことは(好きな男にしか)したくない。
そう宣言することで、私はリングから降りたかった。可愛さ、しな、涙、そういったもので切り抜けるために、見た目や男の年収や若さで競い合ったりしたくない。つかれる。
でも、その競い合いから降りたと思ってもなお、リングの上の女に見下され、やりかえすために私は言う、降りた方がずっと生きやすいのにと。
どちらもシャドーボクシングでしかないのに。
そこで私は思う。もう楽になってもいいかな。わたしは楽になりたいんだ。
拳を捨てよう。町へ出よう。日々を生きるすべてをいっそ愛そう。
この窮屈な社会で、だれもがサンドバッグを探している。シャドーボクシングが日常になったこの世界で、サンドバッグになりそうなものにはみんな飛びつく。例えばいま、一人のデザイナーがボコボコにされて死にかけている。(シャドー)ボクシングは楽しいかもしれない。でもふと我にかえって、必死でからぶりの悪意をふりかざしている自分に気付いた時、それはとても虚しい。
だったらどうしたらいいかなんて、わからないけど、
シャドーボクシングなんだという、からぶりでしかないという気づきがまず一歩になればいいと思う。それはほら、マウンティングや陰口から始まる、女同士のたたかいの場面でも。
もう楽になりたいんだよ。
制圧するとか奪うとかじゃない愛をさがそう。
拳を捨てよ、町へ出よう。