拳を捨てよ、町へ出よう
女の生き様はいろいろだ。
男に頼るものもいる。頼りたくない者もいる。私たちの存在意義はいろんなところに分散していて、その配分もあまりに人それぞれなので、ひとえに女と言ってもいろんな生きものがいる。
それで、たとえば自分にとって何が大事なのか、わかっていても、迷いは無くても、自分と違うものを大切にする女のことを羨ましく思ってしまうこともある。
羨ましさは、妬みとなって、時には恐怖にかたちを変えて、私たちを、リングに立たせる。
あの子がきらい
気にくわない
むかつく、くやしい、わからない。
わかりたくない。
どうして彼女はあんな生き方を選ぶのだろう、
こうしたらもっと、楽なのに。
そう思わずにはいられない私の心も、結局、自分が正しいと思いたいだけだ。
ひとは気にしているものに関してよく喋る。
私の方が、いい、正しい、って 考えているうちは
結局、気になってしょうがないのだ。正当化してないと気が済まないのだ。自信がないのだ。
でも、ねえ、それは所詮、シャドーボクシングでしかない。
敵がさもそこにいるかのような顔で言葉のパンチを繰り出し、嫌みをインターネットに書き込んでみても、それはただのからぶりの悪意だ。
私は以前、女の武器は使いたくないと書いたことがある。
それは女同士の戦いのステージから降りたいからだった。より美しいもの、媚態の上手い者、要領がいい者、立ち回りの上手い者。女だから使える涙、スカート、化粧、そういうものを仕事の責任の場に持ち込む小保方晴子はきらいだった。
私はそういうことは(好きな男にしか)したくない。
そう宣言することで、私はリングから降りたかった。可愛さ、しな、涙、そういったもので切り抜けるために、見た目や男の年収や若さで競い合ったりしたくない。つかれる。
でも、その競い合いから降りたと思ってもなお、リングの上の女に見下され、やりかえすために私は言う、降りた方がずっと生きやすいのにと。
どちらもシャドーボクシングでしかないのに。
そこで私は思う。もう楽になってもいいかな。わたしは楽になりたいんだ。
拳を捨てよう。町へ出よう。日々を生きるすべてをいっそ愛そう。
この窮屈な社会で、だれもがサンドバッグを探している。シャドーボクシングが日常になったこの世界で、サンドバッグになりそうなものにはみんな飛びつく。例えばいま、一人のデザイナーがボコボコにされて死にかけている。(シャドー)ボクシングは楽しいかもしれない。でもふと我にかえって、必死でからぶりの悪意をふりかざしている自分に気付いた時、それはとても虚しい。
だったらどうしたらいいかなんて、わからないけど、
シャドーボクシングなんだという、からぶりでしかないという気づきがまず一歩になればいいと思う。それはほら、マウンティングや陰口から始まる、女同士のたたかいの場面でも。
もう楽になりたいんだよ。
制圧するとか奪うとかじゃない愛をさがそう。
拳を捨てよ、町へ出よう。